東京高等裁判所 平成7年(ネ)2001号 判決 1995年12月21日
控訴人
甲野花子
右訴訟代理人弁護士
金井厚二
被控訴人
甲野一夫
右訴訟代理人弁護士
穂積始
主文
一 原判決を次のとおり変更する。
1 控訴人の被控訴人に対する前橋地方裁判所高崎支部昭和五四年(タ)第七号離婚等請求事件の判決の主文第三及び第四項に基づく強制執行は、元金合計四五〇万円に対する平成六年四月一一日から平成七年六月一三日までの年五分の割合による金員、元金合計三〇〇万〇八七九円及びこれに対する平成七年六月一四日から完済まで年五分の割合による金員を超えてすることはできない。
2 被控訴人のその余の請求を棄却する。
二 訴訟費用は、第一、二審を通じてこれを九分し、その三を控訴人の、その残りを被控訴人の負担とする。
事実及び理由
第一 当事者の求めた裁判
一 控訴人
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人の請求を棄却する。
二 被控訴人
控訴棄却
第二 事案の概要
一 本件は、離婚に伴う財産分与及び慰謝料の支払を命じる判決について、債権の時効消滅を理由にその執行力の排除を求める事案である。
二 争いのない事実
1 控訴人と被控訴人間には、前橋地方裁判所高崎支部昭和五四年(タ)第七号離婚等請求事件の判決(本判決)が存在し、本判決は、昭和五六年四月一〇日の経過により確定した。
2 本判決の主文第三及び第四項は、次のとおりである。
(主文第三項)被控訴人は、控訴人に対し金二五〇万円(財産分与)及びこれに対する本裁判確定の日の翌日(昭和五六年四月一一日)から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払をせよ。
(主文第四項)被控訴人は、控訴人に対し金二〇〇万円(離婚の慰謝料)及びこれに対する本裁判確定の日の翌日(昭和五六年四月一一日)から支払ずみまで年五分の割合による金員の支払をせよ。
3 控訴人は、本判決の主文第三及び第四項の債権について、本判決正本に基づき昭和五九年四月一七日前橋地方裁判所高崎支部に対して動産執行の申立てをし(同年(執イ)第二七八号)、同支部執行官は、同年六月二七日控訴人の家財道具を差し押さえたが、控訴人は、同年一一月二七日右申立てを取り下げた。
4 控訴人は、本判決の主文第三及び第四項の債権について、本判決正本に基づき平成六年四月一五日前橋地方裁判所高崎支部に対して、被控訴人所有の原判決別紙物件目録記載の不動産の強制競売の申立てをし(同年(ヌ)第一八号)、同支部は、これを差し押さえて売却し、平成七年六月一三日その売却代金から控訴人に対し次の配当金を交付した。
(一) 二九二万五〇〇〇円
主文第三及び第四項の元金合計四五〇万円に対する昭和五六年四月一一日から平成六年四月一〇日まで年五分の割合による遅延損害金
(二) 一四九万九一二一円
主文第三項の財産分与金元金に対し六六万六二七六円
主文第四項の慰謝料元金に対し八三万二八四五円
5 被控訴人は、平成六年七月二一日控訴人に送達された本件訴状により、本判決主文第三及び第四項の債権につき、消滅時効を援用する旨の意思表示をした。そして、本訴において本判決主文第三項及び第四項につき、その執行力の排除を求めている。
三 争点
1 控訴人の動産執行の申立てによる時効中断は、その申立ての取下げによっても消滅しないか。
(控訴人の主張)
控訴人が、昭和五九年四月一七日に申し立てた動産執行は、差押物が中古の家財道具二点でその価格は僅か四万円であり、執行官から競売期日直前になると、競落される見込みはないから、期日変更をするか動産執行の申立てを取り下げてくれと要請され、やむなく四回も期日変更をし、五回目には取り下げてくれと要請され、それでも続行を頼むことは非常識となるため取り下げたものである。このような場合民事執行法一三〇条によると、執行官は「売却の見込みがないとき」として差押えを職権で取り消すことができるが、執行官が差押えを職権で取り消しておれば、時効の中断効は消滅しないのである(民法一五四条)。それを控訴人は執行官の要請に応じて、動産執行の申立てを取り下げそのために執行官は「権利者の請求」があるとして差押えを取り消したのである。このように、本件は、実体的には職権取消がなされてもよかった事案に該当するから、控訴人の動産執行の申立ての取下げがあっても民法一四七条二号の時効中断の効力は消滅しないものと解すべきである。
よって、本判決主文第三及び第四項の債権については、本件動産執行の申立てをした昭和五九年四月一七日から新たに一〇年の消滅時効期間が開始し、時効完成日は平成六年四月一七日となる。控訴人は、同年四月一五日、被控訴人が相続した原判決別紙物件目録記載の土地について不動産競売の申立てをしたものであるから、右債権の消滅時効はいまだ完成していない。
(被控訴人の主張)
控訴人主張の事実は否認し、法律見解は争う。
2 被控訴人の時効の援用は、権利を濫用するものか。
(控訴人の主張)
控訴人と被控訴人は、昭和四七年五月一三日婚姻届出をした夫婦で、その間に三人の子があるが、控訴人は、被控訴人の不貞行為や暴力・虐待に堪えかね、昭和五三年五月五日三人の子を連れて、被控訴人の家から逃げ出し、婚姻は破綻した。本判決主文第三及び第四項で命ぜられた財産分与及び慰謝料は、三人の幼児をかかえて日々の暮らしに困窮している控訴人にとって、生活を維持するために不可欠な金額であったし、また、昭和六一年二月六日の前橋家庭裁判所高崎支部の家事審判(昭和五八年(家)第四〇四、第四〇五及び第四〇六号)で被控訴人に対し支払うよう命ぜられた子の扶養料も同様であった。ところが、被控訴人は、これらの判決や審判に承服せず命ぜられた金額の支払を拒絶し、自己の相続した不動産の登記名義を変えず、自己の収入源を明らかにしないなど、控訴人が本判決や右の審判に基づいて強制執行の申立てをすることを妨害した。控訴人は、被控訴人の非協力や支払拒絶に起因する生活困窮のため、長女が成人して働きに出るまで被控訴人所有の不動産に対する強制執行の申立て費用をまかなえなかったのであるが、ようやく長女の協力を得てその費用を用意し、不動産執行の申立てをしたとたんに、本訴を提起され、財産分与及び慰謝料債権の消滅時効を援用されたものである。このような被控訴人の消滅時効の援用は、権利の濫用であって許されないものである。なお、控訴人は、低額の費用で足りる動産執行の申立ては、昭和五九年に行っており、執行官が差押えを職権で取り消すのもやむをえない状況となって、執行申立てを取り下げた。仮にこの取下げのため、法律上時効中断の効力は消滅するとしても、時効が中断すべき事実関係は存在していたものであり、権利濫用の判断に当たりこの事実を考慮に入れるべきである。
(被控訴人の主張)
控訴人の主張事実及び法律見解を争う。そもそも消滅時効の制度は、強制執行の申立費用があるかないかに関係なく、時間の経過によって債権が消滅するものである。
第三 当裁判所の判断
一 当裁判所は、争いのない事実4の不動産競売による配当金が弁済充当された限度で、本判決主文第三及び第四項の債権は消滅しており、その部分について判決の執行力の排除を求める被控訴人の請求は理由があるが、元金合計四五〇万円に対する未払の遅延損害金、元金の残金合計三〇〇万〇八七九円及びこれに対する未払の遅延損害金について、判決の執行力の排除を求める被控訴人の請求は、理由がないものと判断する。
その理由は、次のとおりである。
1 動産執行の申立ての取下げと時効中断効の帰すう
証拠(乙一三)によると、次の事実を認めることができる。
(一) 本判決主文第三及び第四項の債権について、控訴人の動産執行の申立てを受け、前橋地方裁判所高崎支部執行官は、昭和五九年六月二七日、控訴人代理人弁護士金井厚二と共に、被控訴人の自宅に臨み、家財道具であるカラーテレビ一台(評価額二万円)及びサイドボード一ケ(同二万円)を差し押さえ、第一回の競り売り期日を同年七月三一日と指定したが、この際被控訴人は右の執行に立ち会っていた(甲一)。
(二) ところが、第一回競り売り期日直前に、執行官から金井弁護士に対し、「業者(古物商)に声をかけたが、売却日に競落のため同道する業者はいない。行っても無駄足になることは確実ですよ。執行費用が嵩むだけだから期日変更の上申書を出してくれませんか。」との電話があり、同弁護士は止むなく期日変更の上申書を提出した(乙一八)。
(三) その後三回の競り売り期日が指定され被控訴人に告知されたが、その期日直前になると、執行官から金井弁護士に対し、同様の連絡があり、同弁護士はその都度期日変更の上申書を提出していた(乙六ないし九、一八)。
(四) そして、第五回競り売り期日である同年一一月二七日の直前になって、執行官から金井弁護士に対し、同様の連絡があり、さらに、「この次は来年になってしまうから、今度は、期日変更ではなく、ここできりをつけて取り下げてください。」との強い要請があった(乙一八)。そこで、金井弁護士は、右の具体的経過をふまえ、客観的、常識的に動産執行の申立てを取り下げざるをえない状況に至っているとの判断のもとで、同年一一月二七日本件動産執行の申立てを取り下げ(乙一〇、一八)、執行官は、同日差押物件に対する執行を取り消し、その旨を被控訴人に通知した(甲二)。
右の事実によれば、差押物件の売却の見込みがなかったと認められるから、執行官は、民事執行法一三〇条に基づき差押えを取り消すことができたものであり、執行官が同条に基づいて差押えを取り消しておれば、本件動産執行の申立てによる消滅時効中断の効力は消滅しなかったものと解される。
控訴人は、執行官から取り下げを強く要請されたため止むなく取り下げたのであるから、本件動産執行の申立てを取り下げたとしても、時効中断の効力は消滅しないと主張する。しかしながら、強制執行の申立ての取り下げに至る原因には種々の事情があるのであり、その個別的事情により、時効中断が生ずるか否かを決めることになれば法的安定性を欠くことは否めない。控訴人が執行官からの強い要請に応ぜざるを得なかった事情を理解し得ないわけではないが、執行の申立てを取り下げることは、外形的には権利行使の意思を放棄したものと扱われてもやむをえないものであり、動産執行による差押えがあった後でも、動産執行の申立てが取り下げられて執行が取り消された場合には、動産執行の申立てにより一旦生じた時効中断の効力は、民法一五四条により消滅するものと解さざるをえない。以上のとおりであって、この点に関する控訴人の主張は、採用することのできないものである。
2 被控訴人の時効の援用と権利の濫用
証拠(乙一ないし二六、原審及び当審の控訴人本人、当審の被控訴人本人)によると、次の事実が認められる。
(一) 控訴人と被控訴人とは、昭和四四年ころから同棲生活を始め、昭和四七年婚姻届をした夫婦であるが、両名の間に、昭和四五年に長女春子、昭和五一年に二女夏子、昭和五二年に長男二郎をもうけた。しかし、被控訴人は、不貞、離婚届の偽造などの不法行為をしたばかりか、酒乱による妻や子に対する暴行・虐待を続けたため、控訴人は、いたたまれなくなり、昭和五三年五月子供三人を連れて家を出、以後別居するようになった。
(二) 当時長女春子は七歳であったがネフローゼのため入院中であり、二女及び長男は幼く、控訴人が三人の子を育てることは容易ではなかったが、被控訴人は、一切の金銭的な負担を拒むばかりか、控訴人に対し、子らの衣服や布団などさえ引き渡さなかった。このため、控訴人は生活に困窮し、生活保護により最低限度の生活を送った。
(三) そして、控訴人が起こした離婚訴訟や調停及び子の扶養料の家事審判において、裁判所が適正な財産分与及び子の扶養料の算定のため調査に協力を求めても、被控訴人は一切の協力を拒絶し、離婚訴訟の判決や扶養料の審判が確定しても、裁判で命ぜられた金額の支払を拒絶した。このため、控訴人は、生活保護あるいはこれが打ち切られた後は僅かな勤労収入により、子らを養育せざるを得ず、裁判の強制執行の費用を支出することができなかった。
(四) 控訴人が、昭和五九年四月一七日、比較的少額の費用ですむ本件動産執行の申立てをし、同年一一月二七日に右申立てを取り下げるに至ったことは前記1のとおりである。
(五) 被控訴人は、相当規模の農業を営む甲野家の長男であり、甲野家の宅地は約八〇〇坪、農地は約一町五反あった。そして、父一郎は昭和五五年二月二六日に、母ヨシは昭和六〇年一一月七日に死亡し、被控訴人が家業を引き継いだが、被控訴人は、父一郎死亡後も右の不動産を同人名義のまま放置し、そのため、被控訴人名義への代位による相続登記の費用約五〇万円を負担できなかった控訴人は、被控訴人所有不動産に対する強制競売の申立てをすることができなかった。そして被控訴人は、不動産業を営んでいたこともあったが、その収入源などを一切明らかにせず、控訴人が被控訴人の収入に対し強制執行の申立てをすることもできなかった。
(六) そして、長女が成人し看護学校に行くかたわら勤務する病院から得た給料を蓄えた三〇万円と控訴人の実家の兄から借りた金を合わせて、はじめて執行のための費用八〇万円を用意することができたので、控訴人は、本判決主文第三及び第四項の債権について、平成六年四月一五日原判決別紙物件目録記載の土地の強制競売の申立てをしたところ、被控訴人は、時効を援用して本訴を提起したものである。
右に認定した事実によれば、本判決主文第三及び第四項で支払を命じられた財産分与及び慰謝料、更に家事審判で支払を命じられた子らの扶養料は、控訴人と子供三名の生活を維持するための不可欠の金額であったのであり、被控訴人がその支払を拒絶すれば控訴人とその子らが生活に困窮し、したがって、上記裁判の執行申立ての費用を支弁することが不可能となることは明らかであった。しかるに被控訴人は、このことを認識しながら故意に上記金額の支払を拒絶し、あまつさえ、不動産の相続登記を放置し、また他の収入源などを明らかにしないことにより、控訴人が裁判の執行申立てをすることも困難ならしめてきたものである。他方、控訴人は、権利行使をあきらめたわけではなく、本件動産執行の申立てをしたものであって、被控訴人は、本件動産執行における執行が着手された昭和五九年六月二七日には、その現場である自宅にいて執行に立ち会っており、差押物がカラーテレビ、サイドボードの二点で評価額が四万円程度であることを認識していたのであり、さらにその競り売り期日が競り売り場所を自宅と定めて五回にわたり指定され、その通知も債務者である被控訴人に送達されているから、指定された競り売り期日に自宅に執行官が来なかったことや差押物の内容、量、価格などから、競り売りは買受人がなく成り立たないことは充分認識できたもので、控訴人が本件動産執行を止むなく取り下げた事情については認識できたはずである。
消滅時効の制度は、本来債権の不成立や弁済による消滅に関する証拠を長期間保存する負担から債務者を開放することを主眼とする制度であって、債務の履行を免れさせること自体を目的とするものではない。本件のように、債権者が債務者の行動に起因して生活に困窮しひいて権利行使のために要する費用を支弁することができないことから、権利の行使が遅れる場合に、そのことをとらえて債務者が時効による債権の消滅を主張することは、時効制度の予想しないところである。まして、本件では債権者の将来における権利行使の意図を債務者として十分認識しえたのであり、そうであるなら、債務者としては将来における債権者の権利行使に備え、弁済等の証拠があればこれを保存しておき、権利行使の際にそれを裁判所に提出して債権消滅等の主張をすれば足りる。それを時間の経過のみを主張して債権の消滅の効果を導こうとする被控訴人の時効の援用は、時効制度を濫用するものといわねばならない。この点に関する被控訴人の主張は、いずれも採用することができない。
以上のとおりであって、被控訴人の時効の援用は権利の濫用であってその効力を生ぜず、本判決主文第三及び第四項の債権は、時効によっては消滅しないものである。
3 配当金の充当について
争いのない事実4記載のとおり、前橋地方裁判所高崎支部は、平成七年六月一三日、配当金二九二万五〇〇〇円を主文第三及び第四項の元金合計四五〇万円に対する昭和五六年四月一一日から平成六年四月一〇日まで年五分の割合による遅延損害金として、配当金一四九万九一二一円を右元金合計四五〇万円に対する一部弁済として控訴人に交付したものである。
右によると、本判決第三及び第四項の債権は、元金合計四五〇万円に対する平成六年四月一一日から平成七年六月一三日まで年五分の割合による未払遅延損害金、残元金合計三〇〇万〇八七九円及びこれに対する平成七年六月一四日から完済まで年五分の割合による未払遅延損害金の部分が残っていることになる。
二 よって、被控訴人の請求を全部認容した原判決は不当であるから、これを変更し、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官淺生重機 裁判官田中壯太 裁判官杉山正士)